神様がお創造になった生きとし生ける全てが幸福になりますように。

  

 1990年代に、南インドの聖地で2人の日本人女性が巡り会いました。そのお二人は今では70歳を超えておられております。そのお一人がこの手記を書き貯められ、もうひとかたにこの手記を世に出すことを夢見て託されました。ですが、この方もご老齢のため出版に及ばず、またインターネットでブログを書けるということも全く知らず、ましてやパソコンもお持ちではありませんでした。その方々に代わって、その純粋な心の手記を私が代わって、ブログという形にして行きたいと思います。

   時の事の大事を知ればこそ
     み光のもと朝に夕に

   時忘れ
   外忘れ
   我忘れ

   ただひたすらに
   座ざれば
   至福のうちに
   無に還るなり

   花みつる 
   時みつる
   月みつる
   潮みつる

   されど人みつれば
   悟れし我あり
   いにしえの御教え
   尊神の御教え
   朽ち欠けざるを
   思わずに
   御名もどりたる
   光門

   智恵の念仏
   法蔵願理力
   これ まさになり

   ヴァイクンタ ヴァーシー
   シュリー ハリ
   スワミーのなせる
   至高の技なり

   悩(クンタ)とり
   ヴァイクンタ

ヴァイクンタとは、インド神三大神のヴィシュヌ神(宇宙の維持を司る神)が、清らかな意識の乳海(クシール•サーガル)に蛇大王を座しているその館がある所で、天国や浄土に相当します。
クンタとは、悩、苦、悲などで、ヴィシュヌ神はそれらを取り除いてくださるそうです。
つまりヴァイクンタは、悩み、苦しみ、悲しみがない所です。
ヴァイクンタ ヴァーシーは、そこに住まれるお方という意味です

残雪に
ひかり輝き
仏がねむる

蔵王七連峰の
威厳にそいし
三宝荒神山に枕して
まさしく、 まさしく
天上天下唯我独尊
語りつつ…

神性仏性
全土にひかり輝き
まさしく、 まさしく
花まつり
時空をこえて…

悠久の
唯我独尊
覚者仏陀の
目覚めたことば
真理のことば
今も輝く

聖典を読み、花まつり灌仏会の意味を学びますと、やはり王子は、はじめから内なる目覚めもあられ、王子の内的仏性ははじめから働き、後にそれも人生に対する疑問となり、修行によって、外に顕現し、覚者となられたことを、今回あらためて理解いたしました。

六月の朝

白つづじ
あすりの白さ
心うち
拾い上げたり
おもわずに

乾れ、汚れ
土つかぬ前の
六月の朝

上壇の
内庭にそなえたり
至高神御荘厳

あたり清め
小さな空間に汚れなき
純白の深い聖美そえる

今、市内には、恒例のさつき展が開かれていると聞く。丹精込めて作り上げた出品者の喜びと共に、小さく美しく一斉に咲くつつじも皆、ニコニコ笑顔で、訪れる人の心を、目をなごませてくれているだろうが、この自然の中に、誰にも特に顧みられることもないが、授けられた生命を、人の手も借りずに、ただ掟に従い咲くこのつつじの静かさと、深い純白の聖美はあるだろうか…と、ふと思う。

あすりの汚れのない純白の深さに、思わず拾い上げ、手にとり、上壇の内庭に一人、 至高神への御荘厳として供えてみる。短き生命であろうか。最後まで精一杯生きられるように…と。

   夏の夕べに

   さわやかな
   朝の光にめざめ咲く
   色あざやかアジサイの花
   午後の暑さにうなだれる

   ひとつ ひとつを
   水にもどせば
   再び笑みたちひらく
   よろこびの夏の夕べ
   涼風と ともに

   神の静かな聖笑(ほほえみ)
   そこに満ちたり
   心なごみ時をあじわう

   外には鳥たちが
   空間をつらぬき
   歌い、飛びかい
   日の最後の時をなごみ飛ぶ

   透明な小さなドラゴンフライ
   来とまりし、すまして羽やすめ
   そえ増したり喜びの夕べ
   夏の静寂と調和
   笑む無限

   神と神の創造(つくり)たまいし
   生きとし生けるすべてに幸あれ…と

    このトンボは、動きのない座禅の姿にあるひざに止まったばかりでなく、内なる静寂も察知して、羽を休めたようであったので、この詩にしました



霜おりて
紅もえる
かきねがき

装いかえし
静寂の里
滝沢屋

素朴なかべの
古屋敷にも
秋の到来

「讃仰」に導くものが
生き、生命(いのち)かがやく
循環性の
いのちゆえ…

雪山の
三宝荒神山 枕して
仏がねむる 今日もまた…
慈悲の御顔が やわらかく
これ 悠久の禅定の御姿…
蔵王七連峰の威厳にそいし
天上天下唯我独尊
語りつつ…

悠久の禅定とは、私たちの生命を遠くから静かに支えてくださっている、という事です。
悠久の唯我独尊、覚者仏陀の真理の御言葉です。
またよく耳にする禅僧の悟りの喜びの声の一つである「この森、山々、みな仏の清浄心そのものである」とも言えます。
目の前の山々は三吉山と聞きます。
その後方が蔵王山で、悠久の唯我独尊を啓示する釈尊の禅定の慈悲の御姿のよう。
まさしく、身口意に調和と昇華あれば、その恩恵が得られると言います。
窓からの美しい自然光影の啓示です。
ゴッド•グラッシャス。

雪国の調和と啓示

なにげない
桜の小枝も
賀を運び
華やぐ空間
新年への希望

置かれた花びんも
色彩やか
存在を放ち
そえましたり
賀正の念風
幸あれよかし…と

一方
窓の外は
午後の太陽に映えて
雄々しい三吉山
まだ積もり始めの雪山の姿は
まるで窓カンバズの中の
絵のようである

雪空で半ぐもりの
大晦日の午後は
さすがに後方の
悠久の禅定慈悲の
釈尊を想わせるような
蔵王七連峰もかくし

前方の三吉山のみ
ゆるやかな山波は、穏やかに上山の町を
両手を広げて包みこむように座し
釈尊と共に真理を伝えれいるよう…

トウリカランシュッディ
身、口、意に、そして
言葉、想念、行動に
調和と昇華あれば
悠久の唯我独尊

身体も、心も、そして知性も
それぞれにふさわしく扱ってこそ
御魂、本来の力が
その存在を通して発揮でき
そのひかり輝くをみる…と

まさに三吉山であり
悠久の禅定蔵王七連峰
雪国の調和と啓示の一絵姿である


頼みもらいし
包帯で
数珠をつくりて
聖時(とき)すごす
病院の新年に

神仏は
いづこにも
いづれの時にも

ただ
おのれの心が
定まる時に…

再度
真理かみしむ
辰年の新年に

震災の録画みて
思わされし
祈ること
ただ
心より
太陽の昇る日あれと
被災地の町
わが身と共に…

透きとおる
聖時(とき)あればこそ
かないたる
三吉山の
後 悠久
仏 禅定…

雪山の
あすりの白さ
心ひびき
思わず足とめ
仰ぎみる

至福なつかし
ふるさとの虚空
チダーカーシャ
光の到来に…



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